最近、教室によく桃城武ともう一人のテニス部マネージャーの牧田愛子がやってくる。
この前の席替えで少し原口さんと席が近くなったから自動的にその話し声も聞こえてくる訳で、不愉快だ。
今日も牧田愛子がやってきて、彼女の隣に腰掛けている。桃城武はいないみたいだけれど、気遣う言葉、それに対して大丈夫だと答える声は聞こえてくる。大丈夫じゃないなんて誰から見ても明らかなのに、何故そんな見え見えの嘘をつくんだろうか。あぁ、でもそれは私も同じだ。
そこまで考えて、私はきつく目をつむると、椅子を引いて立ち上がった。
気分が悪い。今日は暫くサボりだ。
一瞬、原口さんと目が合った。
何か言いたそうにしていたけれど、私はそれを無視してコートを引っ掴むと教室を出た。
春休みも目前のこの季節、屋上でサボるのは頂けない。
がこん、と出てきたコーヒーは暖かくてそれを両手で包みながら階段を上がっていく。
それでも、やっぱり私は屋上が好きらしい。いや、屋上というよりも、空が。
がちゃりとドアを開くと、そこには意外にも、既に先客がいた。
誰かがいることに気づかないなんて、全くどれだけ気を抜いているんだと自分に怒りを覚えるが、それよりも目の前の人物に私はどうすべきか、一度立ち止まった。
「雲雀さん。ごめんね。」
「?」
何故謝られているのか分からなくて首を傾げると、彼女は小さく笑った。
「ほら、最近私の席の周り、煩いでしょ?嫌そうな顔してるから。」
「・・・いえ。」
その瞬間、原口さんは眉間に眉を寄せて口を開いた。
「雲雀さんも、嘘つくんだね。」
「・・・・」
何も言えずに私は原口さんを見つめる。
確かに、嘘だ。不愉快だと思っている。でも、何故か否定していたんだから、仕方がない。
それより、彼女はわたし”も”と言った。一体どういうことだろうか、と、彼女を見つめながら考えていると、彼女の顔が歪んでぐしゃぐしゃと涙を流し始めた。
「最後に、聞かせて。」
泣きながら言う彼女に、体が硬直する。
「逃げるのって、悪いことかなぁ・・?」
一瞬、頭が真っ白になった。
聞かれた事がある言葉だ。でも、いつ?
考えていると、がしゃんがしゃんと金網が揺れる音がして、は、と我に帰る。
「・・・ッ」
フェンスを飛び越えて、屋上の端っこに立った彼女は、いつか見た誰かのように笑っていて、私は何も考えずに走ると、フェンスに手をかけて飛び上がった。
ゆっくりと、こっちを向いたまま倒れていく彼女。
「お・・かぁさんッ・・・!」
我武者羅に私はフェンスの上から飛び降り、そう口にしながら彼女に手を伸ばしていた。
原口さんは驚いたように目を見開いて、そして、ぐしゃりと顔を歪めた。
「・・しにたく、ない」
じゃぁ、こんなことするなよ。あぁ、もう、面倒臭いなぁ。
控えめに伸ばされた彼女の手を掴んだけど、生憎と私も宙に身を投げた後だ。
体勢を立て直せない。
私は、原口さんの体を何とか左腕で抱えて、右手に力を入れた。
どう考えても無茶だ。
そう考えている間に、地面が目前に迫って右手から肩にかけて、あと膝、左腕の肘にとてつもない痛みが走った。
「だ、だれか!救急車!!」
遠くからそんな声と走ってくる音がする。
私は原口さんを下ろすとその隣にごろりと背中を地面につけて、大きく息を吐き出した。
体中が痛い。
次に目を覚ましたのは白い天井の部屋だった。
「!」
右隣りから声がして、視界に景吾の顔が飛び込んできた。
「屋上から飛び降りるなんざ、何考えてやがる!」
「・・・ごめん。」
言われて思い出す。屋上から落ちた事を。
それで両手が動かないのか。あぁ、でもこの感じだと左手は動くな。骨にヒビ入ってるくらいだ。
「・・・・はぁ。」
大きなため息が聞こえてきて、私はようやくちゃんと景吾を見た。
その目は不機嫌そうにも、心配しているようにも見えるけれど、私は聞きたい事がある。
「・・・原口さんは?」
途端に、景吾は渋い顔をした。
地面に落ちる時、なんとか左腕で原口さんを抱えたとは言え、全く地面にぶつからなかった訳では無いと思う。
「それを聞いたら、ちゃんと説明するか?」
「する。」
即答すると呆れたように景吾は息をついて彼女について教えてくれた。
「意識不明。身体的には問題は無いそうだ。」
その意味するところを瞬時に悟って、私は俯いた。
「。お前のせいじゃねぇだろ。」
すぐに、肩に温かい手が乗る。
「・・・中途半端に関わったから」
「違ぇだろ。」
怒りを含ませた声が落ちてきたと共に、顎を掴まれて、無理やり顔をあげさせられた。
首が痛いのに、とか、いきなり酷い、とか、言いたいけど真剣な顔をした景吾と目が合って、口をつぐむ。
「原口の強さが足りなかっただけだ。別にお前が背中を押した訳じゃねぇ。逆だろ?手を伸ばしたんだろ?」
「う・・ん。」
「身体的には問題無いっつったろ?お前はちゃんと助けられた。問題は原口自身の強さだ。」
はっきりと言い切る景吾の言葉はいつも私を引き上げてくれる。
それでも、やっぱり原口さんの事が気にかかった。
あの、飛び降りる瞬間の彼女が、目をつむると蘇るのだ。
『、逃げる事って、悪いことだと思う?』
あの人もそう言って飛び降りたから。
彼女の声と、母の声が重なって聞こえて、ぶるりと身震いをした。
佳代が1人の女子生徒と共に屋上から落ちたと聞いたのは2限目が終わった後の休み時間だった。
それでも、運ばれた病院が分からなければ行きたくても行きようが無い。
竜崎先生に尋ねてみても教えてもらえず、放課後、状況を病院に尋ねて面会出来そうなら連れて行ってくれる、とのこと。
「不二、佳代なんだけど、同じクラスの雲雀って子と一緒に落ちたって。」
英二が昼食中に呟いた名前に僕は聞き覚えがあった。
以前、佳代が話していた。同じクラスでたまに助けてくれるという女子生徒。
そういえば、一度佳代が苛められていた場所で会った事もあった。
「・・・どういうこと?」
佳代は、助けてくれる、と言っていた。それなのに、何故一緒に落ちるなんて事になったのか。
「愛子なら、何か知ってるかな。ほら、同じ学年だし。」
「・・・放課後、聞いてみようか。」
そう思ったのに、放課後、愛子は部活に来なかった。
それでも、竜崎先生から意識は戻ってないものの会いには行けると言われて、僕達は連れ立って病院へ向かった。
3日後からは春休み。3年生引退後、僕達の代が引っ張っていく事になる。
”今日連れて行く代わりに明日からは切り替えろ”そう言われて、僕が言葉に詰まる代わりに、手塚が力強く頷いて、僕の肩を強めに叩いた。
「あの、もう一人女子生徒が一緒に落ちたと聞いたんですが。」
竜崎先生の車に乗り込んだ僕が尋ねると彼女は頷いてみせた。
「雲雀さんだね。彼女の方は意識がはっきりしてるらしい。重症だとは聞いてるが。」
「そうなんですか。でも、何で彼女が・・。」
「目撃者の話だと、原口が落ちてそれを追いかけるように雲雀さんが飛び出してきたらしい。地面に落ちる時も雲雀さんが彼女を庇ってなければ即死だったみたいだ。」
一見助けたように見える。でも、何故彼女と一緒にいる時に佳代は飛び降りたんだ。
「・・・雲雀さんに、話はきけますか。」
竜崎先生は眉を寄せてミラー越しに僕を見た。
「さぁね。そればっかりは向こうに行ってみなきゃ分からない。彼女も混乱してるだろうしね。」
それでも、僕は雲雀さんに話を聞きたくて仕方なかった。
佳代がこうなった原因を何かしら知っている筈だ。
佳代が苛められていたのは知っていた。だからこそ、何とかしようと動こうとしていたんだ。
物理的には僕達がついて、精神的には愛子がフォローして、それで、何でこんな事になったんだ。
「不二、着いたぞ。」
手塚に声をかけられて、僕はは、と外を見た。
見たことのない病院。それでも、立派な建物には『並盛病院』と書かれてあった。
「最初に運ばれた病院から、此処に転院したらしい。」
「そ、なんだ。」
上の空で手塚の言葉に言葉を返しながら車から降りて、病院をもう一度見上げた後、皆に続いて中に入っていった。
入った瞬間、独特の匂いが鼻をつく。
広い待合室にはいくらかの患者と、問診票を持って歩いている看護師の姿。
「原口佳代さんでしたら、第一病棟の特別病室になります。身分証明書の提示とこちらに必要事項の記載をお願い致します。」
病院に誰か見舞いに来た事は余り無いが、こんなに厳しくチェックされるものなのか。
その戸惑いは竜崎先生も感じたらしいが、代表して先生が免許証を出し、紙に必要事項を書き落としていく。
「すみません、」
その横で僕は受付の人に声をかける。
「一緒に、雲雀さんも運ばれている筈なんですが、面会は出来ますか?」
そう尋ねると、受付の人は目に見えて顔色を変えた。
そして、隣で同じく顔を強ばらせたもう一人の受付の人に小声で何かを聞いている。
「・・失礼ですが、どのようなご関係でしょうか。」
佳代の面会を申し入れた時とは異なる態度。
それに首を傾げていると、竜崎先生が口を開いた。
「私は彼女の通う学校で教員をしていてね。できれば会いたいんだが。」
「・・・かしこまりました。確認致しますので、少々お待ちください。」
頭を下げた彼女は、内線を取ると、どこかに連絡を取り始めた。
「はい。青学の教員の方と、ご学友の方が・・・はい、合わせて7名です。・・はい。承知致しました。」
誰と連絡を取っているのか。少し気になったが、すぐに受け付けの女性は受話器を置いて顔を上げた。
「教員の方だけでしたら、面会可能とのことです。」
「・・っなんで」
思わず身を乗り出したが、僕の肩を手塚が引く。
「不二。大人数で押しかけられないだろ。面識も無いんだぞ。」
「そうじゃな。雲雀さんの所には私一人で行ってくるよ。」
納得は行かないのに、とんとんと話が進んでいく。
「雲雀さんの病室は原口さんの病室の隣になります。」
それを聞いた瞬間、うまく行けば竜崎先生について行って会えるんじゃないかと思ったのに、雲雀さんの病室が目に入った途端、それが無理だと悟る。
彼女の病室の前にはその入室を拒むかのように、スーツを着た大柄な男が立っていたのだから。
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