が生まれたのは彼女の母・雲雀さつきが17歳、雲雀恭弥が13歳の時だった。
相手は27歳、小企業の跡取り息子。
さつきは高校を中退し、駆け落ち。両親はさつきを勘当したという。
それが、さつきを孕ませた男にとっての誤算だった。
雲雀と言えば鎌倉時代から続く名家。現代では資産家としてその名を知られており、男からすれば潰れかかっている自分の会社を立て直すにはうってつけのパートナーだった。
「勘当されただと!?」
「うん。でも、私幸せ。貴方もいて、この子も今一緒にいるんだから。」
さつきが男に、父親から勘当された事を伝えた日から、男が家に帰ってくる日は日に日に少なくなっていった。そしてが3歳の時、男は全く家に帰って来なくなった。
幼心に、家にいる間の大半を玄関の前で過ごす母親の背中は凄く寂しそうだと感じた。
「は、お父さんそっくりの目をしているのね。」
彼女はに対して無関心になるか、反対に酷く執着するかを両極端に繰り返した。
無関心になった時は母の名前を呼んでもちらりとを見るだけ。彼女の口から出てくるのは男の名前ばかり。
その名前が、は嫌いだった。
「、、私の、。あの人そっくり。」
母の手は暖かくもあり、恐ろしくもあった。頭を撫でる。頬を撫でる。抱きしめる手は、彼女の縋るような言動と相まって酷く重く感じた事もあった。
だが、はさつきに手を上げられた事は無かった。さつきが死ぬその日まで。
「、たすけて。」
伸びる手はいつもの様に頭を撫でるでもなく、の首をしっとりと掴んだ。
「あの人は、貴女がいるから戻ってこないのかもしれないの。」
ゆるく喉を撫でていた親指に少しずつ力が入っていく。
「ねぇ、。私を、たすけて。」
その手は、暫くその首を締め付けた後、は、と正気に戻ったかのようにいきなり力を抜いた。
そして、さつきは青白い顔を更に青くして、口許を抑えながら家を飛び出した。
いきなりの出来事にわけが分からない。いつものように自分の顔をみて、あの男に似ている、似ている、と言っていたかと思えば。
「ごほッ・・かハッ・・・」
はぁ、はぁ、とようやく吸引できた酸素に涙をこぼしながら、は立ち上がった。
さつきを追って古びたマンションのドアを開くと、階段をカンカンと登っていく音がする。
「・・はァ・・はッ」
口の端を汚していた唾液をぬぐい、さつきを追って階段をのぼる。
そして、屋上に辿り着いた時、彼女は既にフェンスの向こう側に居た。
「・・おかぁさん・・!」
駆け寄ってフェンスにしがみつく。厭うこともあるが、彼女はたった1人の家族。狭いの世界にいるたった1人の人。いなくなるなんて事を考えたことなどなかった。
一心不乱に手を伸ばすが、彼女には届かない。
「ねぇ、。逃げる事って、悪いことだと思う?」
「え?」
ゆっくりと傾く身体。伸ばしても届かない小さな手。
その後、の意識は途絶えた。
屋上、最期の言葉、目。今、思い返しても原口さんと母親が被る。でも不思議と気持ち悪くはならなかった。
それと同時に、左手を包み込む暖かさに目を開いて自分の左手を見下ろすと、骸さんが私の手を握っているのが見えた。
「起こしますが、宜しいですか?」
「・・・うん。」
気持ちは落ち着いている。原口さんが、飛び降りた原因は昨日の景吾が仕掛けた事で分かった。ただ、それが大本の原因だとしても私の言動が何かしら引き金を引く手助けをした可能性がゼロになった訳じゃない。
「大丈夫ですよ。君には僕も、恭弥君も、景吾君もついているんですから。」
無言で頷くと、骸さんは原口さんの隣に立って興味深そうに彼女を見下ろした。
「彼らも来る頃ですし、さっさと終わらせてしまいましょう。」
そう言いながら椅子に腰掛けて、骸さんは目を閉じた。
しかし、彼らも来る、とはどういうことだろうか。
目を閉じた骸さんはうんともすんとも言わない。
景吾の事なら、名前で言うだろうし・・・と考えていると、数名の足音が遠くから聞こえてきた。
「ホント何なんだよ、跡部。」
「うるせぇ。黙って歩け。」
菊丸先輩と景吾の声。ということは、青学のテニス部。
どういう顔で彼らに会えば良いのか分からなくてどこかに隠れようとしたが、足が動かない。
驚いて足を見ると、蔓が絡まって動けないようになっている。
十中八九骸さんの仕業だ。
「・・もう・・!」
足を強引に動かそうとしてもどうにもならない。
足音はどんどん近づいてくる。
これはもう、仕方がない。諦めてため息をついた時、ドアに手がかかり、ゆっくりと扉が開いた。
「え・・!」
先頭にいたのは不二先輩だった。目が合った瞬間、彼は目を見開く。その後ろの面々も同様に。
いたたまれなくて俯いた。
「・・・景吾、これ、どういうこと。」
骸さんと景吾の仕業だ。全然気づかなかった。いや、骸さんと景吾は直接連絡を取り合っていなかったはず。恭弥さんも一枚噛んでる。
景吾に質問しているのに返してきたのは不二先輩だった。
「それは、こっちのセリフだよ。何で君がここに・・・それに、何なんだ、その男。」
敵意よりも戸惑いの方が大きい声。
「不二。落ち着け。」
「手塚は知ってたんだね。」
「あぁ。」
どうして良いか分からない。いつも側にいて、助けてくれる景吾が青学の人たちの中にいて、何だか敵対してるみたい。
「・・おやおや、何を揉めてるんですか?」
クフフ、と骸さんの変わった笑い声が耳に入る。
「もうそろそろ目を覚ましますよ。」
骸さんのその言葉に、一体何を言っているんだ、と言わんばかりの視線がいくつも彼に向けられるが、私はその意味を正しく理解して、原口さんに視線を向けた。
いつのまにか足に絡まっていた蔓はいなくなっていて自然と足が前に出る。
ゆっくりとまぶたを開ける原口さんと目が合った。
後ろで息を飲む音が聞こえるが、誰も言葉を発せない。多くの人が彼女が目をさますのを待ち望んでいたはずなのに、いざ目を覚まされるとまずどう声をかければ良いのか分からないのだろう。
そのなか、一番最初に口を開いたのは原口さんその人だった。
「雲雀さん・・・」
彼女の声はかすれていた。そして、ぱらぱらと涙をこぼす。
「ごめん・・・ごめんなさい・・・雲雀さん、私」
げほげほと咳き込む原口さんに、骸さんが水を差し出した。
「飛び降りた瞬間、怖くなって、私を助けようとして飛び出した雲雀さんを最後に見て、私、雲雀さんを殺しちゃったんだと・・」
「・・・勝手に殺さないで。」
私がそうぶっきらぼうに言うと、原口さんは涙を流しながら目を瞬かせた。
「私も、悪かった。貴女を突き放すような事を言ってしまって。」
それ以上言葉が続かなくて、助けを求めるように原口さんの隣にいる骸さんを見たが、彼は笑うだけだった。
「ううん、いつも、助けてくれてありがとう。」
何度か原口さんから聞くそのセリフ。いつもは不快だったのに、今はそんなこと無くって、笑って頷いた。
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