景吾が文化祭の準備が面倒だ、とぼやきはじめた頃、ようやく青学も文化祭の準備に取り掛かり始めた。
投票が行われて、やることになったのは和装カフェ。何でもクラス委員長の母親が茶道教室を開いているらしく、道具を唯で活用できるから。らしい。
「ってことは浴衣?」
「いいねー!着たい!!」
盛り上がる女子の声がざわざわと大きくなっていく。
「じゃぁ、浴衣持ってる人は今週中に写真撮って来て、私まで出してねー!」
じゃぁ次、役割分担。と言いながら黒板をチョークが走る音を聞きながら、私は欠伸を一つした。
そうして外に視線をやろうとすると、窓際に座っている生徒の顔が見えた。
見覚えは、ある。原口佳代だ。
彼女の頬にはガーゼが貼られてあって、予想通りあれからいじめとやらは酷くなっているらしい。
「ホールは男女半々にしたいのよねー。男物の浴衣の数にもよるけど。」
予想外に、話はどんどん決まっていく。
因みにホールスタッフに立候補しなかった私は自動的に裏方行きだ。
「出すお菓子は、和菓子だと予算オーバーだから・・何か無い?」
「抹茶のパウンドケーキとかは?」
クラスの中心人物たちからどんどん意見が出てきて、黒板に文字が増えていく。
暇だ。
まだ時間がかかりそうだ。と、私は本を開いた。
昨日景吾から借りた本。まさかドイツ語の本を渡されるとは思わなかったが、辞書を引きながら何とか読む。
いつもよりゆっくりしかページは進まないが、集中はいつもよりもしている。
だから、この文化祭の話し合いが終ったのにも気付かなかったし、原口佳代がじっと私を見ていたことにも気付かなかった。
「雲雀さんてさ、なんていうか、感じ悪い、よね。」
荷物を纏めていると耳に入ったのは恐らく同じクラスの女子生徒の声だ。
開けっ放しになっているドアのせいで廊下の声が聞こえやすい。
「うんうん。さっきの話し合いも一人本読んじゃっててさ。」
「いつも1人だしね。」
女子生徒が2人はいってくるのと、私が立ち上がるのは同時だった。
2人は、私を見ると、はっとして目を瞬かせる。
「ご、ごめ・・」
「・・別に気にしてないので。」
舌の根も乾かないうちに謝られた所で何も感じないし、そもそもクラスメートに何を如何言われようが何も響かない。
私はため息混じりに言うと、彼女の横を通り過ぎて教室を出た。
靴を履き替えて、裏門へ向かっていると、何人かの話し声が聞こえてきた。
悲鳴も、あがった。
何故か、原口佳代の顔が思い浮かんで、私は、声のする方へ足を進める。
テニスコートから1番近い水道。その脇に立つ校舎の影で、それは行われていた。
何故だろう。いつもなら、声なんて無視して帰っているはずだし、どうにかしてやろうなんて気は起きなかったはずなのに。
原口佳代の正面に立つ3人の女子生徒のうち、1人が彼女のガーゼが貼られている頬を引っ叩いた瞬間、私は声を出していた。
「何をしてるんですか。」
俯く原口佳代はジャージを着ているのに対して、3人は制服のままだ。恐らく学年も違うだろうし、まるで接点が見えない。
「関係ないでしょ。」
髪を綺麗に巻いた女子生徒が鼻で笑いながら言う。
「えぇ、まぁ、関係は無いんですけど・・・」
ちらり、と原口佳代を見る。涙で濡れた瞳がすがるように私を見た。
こういう瞳を、私は知っている。
「貴方達のお陰で酷く気分が悪いんですよ。」
あんな瞳をする人間は嫌いだ。でも、放っておけない。違う、放っておけないんじゃなくて、目障りなんだ。
「あ、あんた、1年でしょ。後輩の癖に・・・」
「私、今、凄く気が立ってるんです。痛くしないと、分からないかな。」
私に食って掛かってきた女子生徒は、眉を寄せて更に口を開こうとしたが、後ろの女子生徒が彼女の手を引っ張る。
「あ・・・あの子、雲雀って子だよ。やめたほうが良い。」
止めた女子生徒が震え上がる。もしかして同じ小学校だっただろうか。
何にせよ、見覚えなんて無いんだけど。
「何それ。」
「いいから!」
彼女は不思議がる2人を引っ張って走り去って行った。
私はそのまま、地面にへたりこんでいる原口佳代に近づいた。
「ねぇ、原口佳代。」
びくり、と彼女は肩を揺らす。
「貴方が誰に苛められているか、とか、どうして苛められているかなんて、興味は無いんですが」
ゆっくりと顔を上げた彼女の瞳は、やっぱり嫌いな”瞳”で、胸の奥で何かがぐるぐると渦巻き始める。
「苛められるということは貴方にも原因はあると、思いますよ。」
「ひ、雲雀さんに、何が分かるの・・!」
彼女の目に、初めて怒りが浮かぶ。
それを見て、私は急速に気持ちが冷えていくのを感じた。
黒いものが、無くなっていく。
「私は、何もしてない!ただ、テニス部のマネージャをやってるだけなのに!」
「佳代!」
走ってくる足音に、私はようやく彼女から目を外した。
彼女も、名前を呼ばれて私の背後に視線を送る。
「君、何をしてるの。」
君、とは私を指しているんだろう。振り返ると、目をきつく吊り上げた男が立っていた。
「・・・何も。強いて言うなら、話をしていた、ですかね。」
「そうは見えないけど。」
彼はそのまま進むと、彼女の手を引っ張って立たせると、気遣うように彼女を見下ろす。
確かに、私は彼女の目の前に立って見下ろす先には蹲る彼女の姿。しかも、彼女の頬のガーゼは取れかかっているし、頬は赤くはれ上がっている。
「君たちのやり方にはうんざりだ。僕達に言いたいことがあるなら直接言えば良い。」
声を荒げることもせずに静かに怒る男を私は無感情に眺めた。
そんな事を言われても言いたいことなんて無い上に、彼が誰かも分からない。そもそも私に怒るのはお門違いだ。
「不二先輩、違うんです!雲雀さんは、私を助けてくれて・・・」
「そんな風には見えなかったけど・・そうなの?」
尋ねられて私は肩を竦めた。
「さぁ、どうでしょう。私は助けたつもりはあんまり無かったんですが。」
「そんなことない!雲雀さんが来てくれなかったら、私、もっと酷い目にあうところだった。」
彼女はガーゼを貼り直しながら私を見て、笑った。
「なんか、怒鳴っちゃって、ごめん。あと、助けてくれてありがとう。」
「・・・気が向いただけなので。」
未だに男は私を疑うように見ているけど、これ以上何か話す気は無いし、さっさと帰りたい。
ため息を一つすると、彼らに背を向けた。
私は、あの瞳を知っている。
あれは、お母さんの瞳だ。何もできない、どうすることも出来ない幼児だった私に、向けられていた瞳。
『、私を助けて』
どうやって助けろと。
『私には、貴女だけ。私の、。』
彼女の声が頭の中に木霊する。声が、彼女の記憶が、纏わり着いて、気持ち悪い。
身体が重い。
まるで、お母さんが、縋り付いているみたい。
がた、と椅子が音を立てた。
急速に五感が戻る。
「どうした、雲雀。」
「・・は、」
目を開くと、黒板の前に立っている教師。黒板に書かれているのは鎌倉時代について。
ここは、どこだろう。―――教室だ。
相変わらず身体は重いし、気持ちが悪い。
「気分が、悪いので、保健室に行っても、良いですか。」
「あ、あぁ。」
こみ上げる吐き気に、口元を押さえながら言うと、戸惑いながらも教師は了承した。
ふらふらと教室を出てトイレに向かうと、全部吐き出した。
その後は余り覚えていないが、保健室に向かって、保険医の驚いた顔を見て、ベッドに突っ伏した気がする。
どれ位寝ていたんだろうか。携帯も置いて来てしまったし、腕時計もない。
それでも、体調は少し良くなっていて(とは言っても、頭痛は酷いし、吐き気だってまだある)、私は身を起こすとベッドを囲むように引かれていたカーテンを開いた。
「あら、雲雀さん。大丈夫?」
「えぇ、大分。」
「そんな顔色で言われても信じられないわね。」
そう言いながら保険医は立ち上がると体温計を持ってベッドの方へやってきた。
「保護者の方に連絡したんだけれど、繋がらなくて・・・誰か、迎えに来てもらえる人はいる?」
「・・・あぁ、1人で帰れます。」
渡された体温計を脇に挟みながら言うと、保険医は困ったように眉尻を下げた。
「そういう訳にはいかないのよ。寝る前は39度も熱があったのよ?なら、担任の先生にお願いして・・」
「分かりました。連絡します。」
「番号は覚えている?私から連絡するわ。」
恭弥さんがいない今、頼れるのは景吾か柏木さんくらいだ。景吾にお願いすると後々色々言われそうだから柏木さんにしようと思っていたのに、覚えているのは景吾の番号だけ。
「・・分かりました。番号は・・」
番号を伝えると、彼女はメモに書き落とした。
「荷物も、取ってきて貰いましょうか。担任の先生に連絡しておくわ。」
丁度、体温計が音を立てる。それを抜き取ると確認する前に保険医に取られてしまった。
「38度4分。やっぱり全然大丈夫じゃないじゃない。まだ寝てなさいね。」
少し怒ったように言った彼女にベッドに押し戻され、四の五の言う前にぴしゃっとカーテンを引かれてしまった。
微かに誰かが話す声がした。
寝ている所に他人がいるのが酷く不愉快で、起きようとするけれど、身体は鉛のように重くて、まぶたが開かない。
動け。
身体に必死に命令するのに。
「雲雀さん、大丈夫?」
声が、近くで聞こえて、身体に電流が走るような、何かが這い上がってくるような気持ち悪さを感じて、私は目を開くと、飛び上がるように身体を起こした。
「駄目でしょ、急に起きちゃ。」
窘めるように言う保険医の姿。カーテンは開かれていて、その後ろには女子生徒が立っている。
私は、カーテンが開かれたのにも関わらず起きれなかったのだろうか。
「あ・・・」
支えようと手を伸ばした保険医の手を咄嗟に払ってしまって、眉を寄せる。
「・・・すみません。少し、混乱して・・」
それにびっくりしたのは保険医だけじゃなくて私もだ。彼女は首を傾げたが、直ぐに背後の少女の存在を思い出したかのように振り返った。
「お友達が荷物を持ってきてくれたのよ。あと、お迎えももうこっちに到着するみたいだから・・」
そう言うと同時に、がらり、とドアが開いた。
「氷帝学園の跡部景吾です。雲雀さんを迎えに来ました。」
「・・跡部君?」
やっぱり柏木さんだけじゃなくて景吾まで来たのか。部活があるはずなのに悪いことをした、と思った時、私の荷物を持ってきてくれた生徒が彼の名を呼んだ。
「・・そうだが、誰だ?」
「あ、青学のテニス部マネージャーの原口です。」
「あぁ、そういや、見かけたことがある気がするな・・。」
そう言いながらも景吾はベッドに向かって歩いてくる。
私の横に立っている保険医に頭を下げた後、彼は私を見下ろした。
「・・・何情けねぇ顔してやがる。」
「え?」
景吾が手を伸ばして、気付かないうちに流れていたらしい涙を拭った。
「何かあれば直ぐ、連絡しろっつっただろ。バカ。」
「あー、いや。別に何も無い筈なんだけど。」
そう言うと、景吾は大きく呆れたようにため息をついた。
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