誰もが寝静まった時刻。は、は、と目を開いた。
カーテンも閉まっていて、非常灯だけが部屋を照らす。
見慣れない部屋に一瞬体が強張ったが、隣に感じるぬくもりに、すぐに力を抜いた。
(・・・そうだった。)
額に張り付いた髪を避けようとすると、包帯に巻かれた腕。ついで、思い出したようにやって来た痛み。
頭が少しぼんやりするのは、熱が少し出てきたのか。
(頭が、重い。)
横を向くと、寝息を立てて寝入っている景吾の顔。それを少し眺めた後、は身を起こそうと、肩辺りに乗っかっていた景吾の腕を退けて、ベッドを抜けだした。
ドアを開けると、少し離れた位置にあるナースセンターの明かりが廊下、壁に反射されていて目を細める。
(・・・原口、佳代・・)
ドアを閉めた後視線が向いたのは、隣の部屋のネームプレート。
それに手を伸ばして、ゆっくりと指でなぞる。
(私が、助けられなかった人の、名前)
がり、と力の入った指先がプレートを引っ掻いた。
そしてそのまま力なく下に降りていった手は、ドアの取ってにかかり、ドアをスライドさせる。
部屋は、当たり前だがしん、としていて、心拍数をモニタリングしている音だけが部屋に響いていた。
壁に手を付きながら躊躇いなく足を踏み入れるとゆっくり、ベッドへと足を進める。
彼女の様子を見に来るのは、初めてだ。
聞いていた通り、外傷は大したことが無いようで、眠っているだけにも見える。
(・・・でも、即死じゃなくて、良かった。)
マンションの踊り場。
ただ、見ているしかなかった、母が落ちていく姿。
ぶつかる音。叫び声。
音が、頭のなかで反響する。
「?」
その声に、は、と目を開いた。
目の前には、心配そうに覗きこむ景吾の顔。
「ったく、気がついたら居なくなってて驚いただろ。」
「あぁ・・・ごめん。」
はぁ、と息を吐き出して、原口の眠っている顔を見た。
「原口の見舞いなら、明日、日中にしろ。」
手を引かれると、その手が暖かくて自分の体が冷えてしまっていることにようやく気がついた。
「・・・体も、冷えてるじゃねぇか。」
からしたら、あの場所にいたのは数分のことだったと思ったのに、もっと長かったのだろうか。
ごめん、とつぶやくと、握られている手に力が込められた。
病院に運ばれた2日後、退院したは跡部邸に居た。
足と腕のギブスは外れていない為、不便極まりないものの、はよく勝手知ったる跡部邸を歩きまわっている。
流石に飛んだり跳ねたりは出来ないが、今日も敷地内の庭に向かう。フランとルークがその尻尾を取れんばかりに振って歓迎しているのに目を細めた。
「2人とも、今日も元気そうだね。」
よく晴れた昼下がりは少し肌寒いが過ごしやすい。
よく手入れされた芝生に腰を下ろすと、ごろりと体を後ろに倒した。
フランとルークはが怪我しているからか、飛びつきはしないものの、その傍らに伏せると、鼻先を腕や腹にこすりつけてきた。
(今日は、終業式だっけ)
きっと、景吾は忙しいのだろう。そう思いながら自由に動く左手でかりかりとフランの眉間を掻いてやると、ルークが自分も、とでも言うように左手に鼻を伸ばす。
二匹の体が寄り添っているため、温かい。
「・・・ん・・?」
思わずうとうととしていたを起こしたのはフランとルークだった。
2匹が起き上がった拍子に左手が芝生の上に落ちて、覚醒する。
「・・・・来客、かな。」
2匹はの横に立ち上がって、門の辺りを見ている。
耳を欹てている2匹に、も立ち上がって門へと向かった。
いつもなら、誰か来たからと言って出て行くことはしないが、いかんせんここ数日軟禁状態で暇過ぎるのだ。
柏木が向かっているかもしれないが、見に行くくらいは良いだろう。
そう思いながらゆっくりと芝を踏みしめて門へと向かうと、その後ろをフランとルークがついてきた。
門のそばにある垣根の脇に辿り着こうと言う時、聞き覚えのある声が聞こえてくる。
柏木の声だ。
(あ、でも。もう一つの声も、聞き覚えがある・・・)
誰だっただろうか。そう思いながら垣根の脇から顔を覗かせると、そこには同級生の姿があって、ばっちりと目が合った。
「あ!」
目が合った相手が声を上げる。
「・・・桃城君・・・と、」
垣根から足を踏み出しながら、彼と、その背後にいるもう一人の生徒に目を走らせる。
「・・・不二先輩、でしたっけ?」
何でこの2人がいるんだろう。そう思うのと、柏木が窘める声をかけるのは同時だった。
「さん。また裸足で・・・。」
「・・・あ。」
そういえば、そうだった。言われて見下ろすと、裸足の足が目に入る。
顔を上げて柏木を見ると、彼は困ったようにため息をついた。
「そんなことより、お二人はどういったご用件で?」
それを見なかったことにして、桃城と不二に尋ねると、桃城がA4サイズの封筒を掲げて見せた。
「これ。今日配られた連絡事項とか、春休みの宿題とか届けに来たんだ。」
「あと、」
桃城の言葉に続けて、不二がを睨みつけるように見ながら口を開いた。
「少し、話を聞かせて欲しくて。」
何についてだなんて聞かなくたって分かる。
柏木は伺うようにを見たが、彼女はふぅん、と呟いてすぐに頷いた。
「柏木さん。2人とゆっくり話をしたいんですけど・・」
「あぁ・・・はい。この時間でしたら、南側のテラスが宜しいかと。」
薦められるまま頷いて、は踵を返そうとしたが、それを柏木が引き止める。
「さん、余り歩き回られては・・・」
振り返ったの足元ではフランとルークが不思議そうに呼び止めた柏木を見上げている。
「大丈夫です。少し、歩かないと、体が鈍っちゃうから。」
「・・・そうですか。では、フラン、ルーク、お願いしますよ。」
これが景吾であれば、問答無用でを抱え上げる所だろうが、柏木はそこまで強く出れない。せめて、と2匹に声をかけると、2匹は分かっているのか分かっていないのか、一声上げて、歩き始めたの後ろを追い始めた。
すぐにその姿は垣根に遮られてしまって、柏木はようやく桃城と不二に向き直る。
「では、ご案内致します。」
「あっ、はい!」
慌てて返事をした桃城とは反対に、不二は静かに頭を下げた。
それを受けて、柏木はロータリーに向かって歩みを進める。
物珍しさに視線をきょろきょろとさせる桃城の横で、不二は柏木の背中に声を投げつけた。
「あの、何故雲雀さんは、跡部の家にいるんですか?」
その問いかけに、柏木はおや、と眉を持ち上げた。
の学友がここに訪ねてきたのは初めてだったため(が氷帝に通っていた時は除く)てっきりそれなりに知っている仲かと思ったのだ。
「・・・さんと景吾様は幼馴染、と呼ばれる仲ですので、さんの家族が不在の時は、跡部の家で預かっているんですよ。」
「へー、なら、何でまた雲雀は青学に来たんスかね。」
「私からは何とも・・・」
が青学に行った理由なんて、当人と景吾、そして恭弥くらいしか知り得ない事だろう。
言葉を濁らせた柏木に、不二はただ、小さく「そうですか」と返すしか無かった。
「さて、こちらがテラスになります。そちらにどうぞお掛けになってお待ち下さい。」
「あ、ありがとうございます。」
礼を言って、恐恐と椅子に座った桃城の横に不二もゆっくり腰掛けた。
まだ、は来ていないらしい。
「しっかし、凄い家っスね。」
「・・・そうだね。」
原口が飛び降りてからというもの、テニス部全体が少し沈んでいるが、中でも不二は酷いように見えて、桃城は眉尻を下げた。
今日だって、偶然靴箱で顔を合わせて、鋭く桃城が持っていた封筒に突っ込んで来て、に届け物をすると聞くや否や、自分もついていくと言い始めたのだ。
部活仲間以外には積極的に関わろうとしない不二が珍しいと思うと同時に、少しだけ、嫌な予感がした。
「・・・不二先輩。」
不二の望むまま、一緒にここまで来てしまったが、桃城は意を決して口を開いた。
「まだ、あれから時間も経ってないし、雲雀に話を聞くのは、あんまり良いとは思えないんスけど・・」
「時間が経っていないからこそ、だよ。」
不二の視線は、庭へと面した窓に向いたままだ。
「彼女の記憶が鮮明なうちに、聞いておきたいことが、あるんだ。」
何を確認したいのか。
あの日、屋上で何か、原口と話をしたか聞きたいのだろうか。
勿論、桃城もそれは気になっていたが、何と言うか、今はそれを聞きたいというより、原口の命の恩人であるに、ゆっくり休んで欲しかった。
だから、春休みが明けて、学校に登校してきたら聞こうと思っていたのだ。
「・・・・そっスか・・」
しかし、気になるのに変わりは無い。
結局止めることも出来ずに、がやってくるのを不二と共に待った。
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