朝、本屋の店先の花壇に日課の水やりをしにいく。
花屋でもないのに、近くの花屋のものより美しく長く花を咲かせる本屋の花壇はここらではちょっとした風物詩として有名だった。
(あぶない)
流れ込んで来る声に、は首を傾げて花を見下ろした。
ついで、ざわざわと空気が震える。
(あぶない)
幾重にも重なる声に、眉を寄せて空を見上げる。
「何が、危ないの?」
(にげて、こわいものがくる)
「こわいもの・・・」
何を怖がっているのだろうか。
声を疑う気は全く無い。しかし、この怯えようにきゅっと口を結んだ。
次の瞬間、ぴたりと止んだ声に、は顔をあげた。
朝早い時間、ここを通る人は珍しい。
遠くに、黒ずくめの男が見えた。
なんだ、普通の人だ。むしろ、ここに来る人の中ではまともかもしれない。
水やり用のジョウロを手に、息を吐き出した。
「おはようございます。」
「あぁ・・見た事の無い顔だな。ここの店員か?」
常連の人なのだろうか。その割に記憶に無い。
「一年くらい前から働いているんですが・・・」
「・・・」
青年はそれを聞いて思案するように顎に手をやった。
黒い髪に黒いスーツ。額に巻いた白い布がいやに目につく。
しかし、黙っている時間が長い。
「・・どうかしましたか?」
「あぁ、いや、もう随分とここに来てなかったと思ってな。エドモンドは中に?」
「多分もうすぐ来ると思いますよ。」
そう言いながらジョウロを脇に置いて、ドアを開けて中に入って待っているように促すと、彼はそのまま中に入って行った。
まだ水やりが途中だ。
じょうろを拾い上げる頃、花が再び囁き始めた。
(あぶない)
「・・普通の人だったと思うけど」
(でも、気をつけて)
(彼は、あぶない)
「分かった」
こういう忠告は聞いておくにこしたことはない。
は返事をすると、さっさと水やりを済ませて店内に入った。
男は何冊か本を取って、勝手を知っているかのように近くの椅子を持って来てカウンターの向かいに座っていた。
時計を見るとそろそろエドモンドがやって来る時間だ。
取りあえずコーヒーでも出そうかと奥に向かった。彼はいつも来るなりコーヒーを持ってこいと五月蝿いのだ。
「おぉ、クロロ、来てたのか。」
お湯を沸かしている間、ドアの開く音とエドモンドの声がした。
ミルで挽き終えた豆をペーパーにセットして、お湯を注ぐ。
矢張りコーヒーは挽きたてが良い。香りが違う。
「は?」
「あぁ、ここにいた女なら奥でコーヒーを入れている。」
女だなんて、随分な言い様だな。
心の中で悪態を付きながらもはコーヒーをカップに入れるとトレイに乗せた。
いつもは面倒な作業だが、何だか今日は身体か軽いせいか、特に何も感じない。
「はい、コーヒー。ミルクと砂糖は必要ですか?」
既にエドモンドはいつものカウンター越しの椅子に腰掛けている。
「いや、このままで良い。」
成る程、随分と癖のある本を読んでいる。
エドモンドと話しが合いそうな人だと、彼の手元にある本を見て思った。
過去の歴史にまつわるきな臭い話しが大好きなのだ。エドモンドは。
「暫く来ない間に、随分と面白そうな本が増えたな。」
「そうだろう、そうだろう!」
エドモンドは自慢げに胸を張って、その視線をに向けた。
そろそろこの場を立ち去ろうかと思っていたはそれにびくりと肩を揺らす。
「こいつが意外とマニアでな。お薦めの本を聞いてみると良い。ちなみにお前が持っているその本もが仕入れたやつだ。」
「へぇ・・」
今までに全く興味を持っていなかった目がを見た。
「あー・・、私、本の整理しなきゃぁ・・」
あからさまに視線をそらしては奥へと引っ込んだ。
口実に違いは無いが、店に出し切れない本の整理をそろそろしなきゃいけないと思っていたのは本当だ。
「悪いな、人見知りなんだ」
背後からエドモンドの声が聞こえた。
エドモンドは喫煙者だが、店内で決して煙草を手にしない。
本の保存状態には人一倍気を使っているのだ。
その代わりにいつも銜えているパイプを引き出しから取り出して口にくわえながらエドモンドはクロロを見た。
「なんだ?」
「・・・ここで人を雇うなんて初めてじゃないか?」
問われて、エドモンドはあぁ、と頷いた。
「最初は毎日ここに通ってたんだが、あまりに熱心に本を探してるもんでな、店員にならねぇかって誘ったんだ。よく面白ぇ本も売りに来てたしな。」
それとか、と指を指した本にクロロは視線を落とした。
「いい拾いモンをした。あいつは本を仕入れるのが上手いからな。どうしたらああいう風に希少価値の高い本を本を見つけてくるんだか・・。」
「念か?」
「どうだろうな。」
だとしたら欲しいな、と思案するが、それはすぐに奥から聞こえて来た騒々しい音にかき消された。
目の前のエドモンドが溜め息をつく。
「いい奴なんだが、そそっかしい所が玉に傷ってやつなんだよなァ・・・おい、ちょっと見て来てくれねぇか?」
「・・仕方無いな」
エドモンドには、この本屋が出来る前から、彼が前の職業をしている時からの付き合いだ(それこそクロロが10代の頃からの)。
情けないことに借りはいくら返しても足りないくらいある。
クロロは立ち上がると、地下室への階段を下りて行った。
「痛い・・・」
予想通り、そこには本の下敷きになっているの姿があった。
本があったであろう場所を見ると、本棚が壊れている。
重さに耐えきれず、落ちて来た所に運悪くいたらしい。
「大丈夫か?」
「あぁ、はい。大丈夫です。」
頭をさすりながら起き上がって、辺りを見回す。
酷い有様だ。
「店長に何か言われたんですか?」
「あぁ。様子を見て来いとな。」
そう言いながら本を拾い上げる。
「よくも此処まで集められたものだな。前来た時にはこの半数くらいしか無かった。」
「そうですか。」
そう返しながらは本を集め始めた。
本棚が一つ駄目になってしまった。丁度本棚が足りないと思っていたところだ。
合わせて買おうと思いながらどこに置こうかと思案しながらちらりとクロロを見た。
ここにエドモンド以外がいると落ち着かない。
「・・・大した事無いので、上に戻って大丈夫ですよ。」
「いや、少し見て回りたい。」
そう言いながら奥の方に歩き始めるクロロに嘆息した。
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