たどり着いたマンションに流川は、ほー、とその圧倒的な高さを見上げた。
既に後ろに乗っていた重みは無い。
「悪かったわね。送ってもらっちゃって。良かったらお茶でも飲んでいく?」
普段なら絶対断る申し出。いや、それ以前にこんなシチュエーションまで来ることが無いのだが。
流川の好奇心は彼の背中を押す。
「ダイジョーブなのか?」
「送ってもらった礼くらいは出来るわよ。」
失礼ね。と言われて、そういう意味じゃないんだが、と思いながらも流川は自転車を駐輪場に置いた。
後ろから着いて行くとが鍵を取り出して黒いセンサーの前に掲げると、機械音がして扉が開く。
(すげー、ハイテクだ。)
生まれてこの方一軒家で暮らしているし、遊びに行くことのあった友人も然り。
不思議な気分のままエントランスへと足を踏み入れた。
そのままエレベーターで上まで上がり、玄関を開けると、人がやってくる気配がして、20代後半の男女が1人ずつ姿を現して頭を下げた。
すぐに使用人がどうのこうの、と言っていた話を思い出し、流川はどうするべきか分からずにを見る。
「お帰りなさいませ。その方が送ってくださったご学友の方でいらっしゃいますか?」
「えぇ、そうよ。流川君。こっちが執事の柏木、その後ろにいるのが身の回りの世話をしてくれている茅乃よ。」
「・・・ドーモ。」
すぐにスリッパが出されて、はそれを履いて中へ入っていく。
「流川さん、どうぞこちらをお使いくださいね。」
茅乃は続いて来客用のスリッパを出すと、それを履くように促した。
家でもスリッパを履く習慣の無い流川はおっかなびっくりスリッパを履き、の後を追う。
部屋に入ると、はジャケットを脱いで柏木に渡しているところだった。
リビングダイニング、そしてキッチンが続いている広い空間にはリビングの部分に絨毯が敷かれていて、その中央にはローテーブルとソファ、そして向いには大きな液晶のテレビがある。
その横のダイニングと思われるフローリング部分には食事を取る用のテーブルと椅子が4脚。
テーブルの隣はカウンターになっていてその向こうはキッチンになっている。
「あぁ、コーヒーで良い?」
ソファに腰掛けながら手をこまねくので、質問に頷きながら自分もソファに腰掛ける。
「3人で住んでるのか?」
キッチンからコーヒーを淹れる匂いがする。視線をやれば、茅乃がコーヒーを淹れている姿が見えた。
柏木はジャケットと荷物を部屋に置きにいったのか見当たらない。
「いいえ、茅乃は隣の部屋。柏木は茅乃の隣の部屋に住んでるわ。まぁ、柏木は週の半分くらいしかこっちにいないけど。」
「えぇ、本当に人使いが荒いんですから。」
ドアが閉まる音と共に柏木が入って来て、笑いながら言う。
「まぁ、それは悪いと思ってるわよ。でも、出来ると思ってるから頼んでるのよ?」
かちゃかちゃと小さな音を立てながら茅乃がやってきて、トレーの上からコーヒーとミルクピッチャー、シュガーポット、そしてフロランタンをローテーブルに置いた。
「こちら、フロランタンです。良かったらお召し上がりになってください。」
「良かったわね、流川君。茅乃のお菓子は美味しいのよ。」
茶化すように言ってはひとかけら取ると口に運んだ。
それにならって流川もフロランタンを口に放り込む。
「・・・うめー・・」
茅乃はほっと安心するように顔を綻ばせた。
「様、私はこれで。本日中に本邸に戻らなければいけませんので。」
「あぁ、明日は朝から会議だったわね。よろしくね。」
「お任せください。」
に頭を下げた後、柏木は流川を見た。
「流川さん、どうぞゆっくりなさって行って下さい。」
「・・・」
なんて返して良いか分からず、流川は無言で頷いた。
「茅乃も座って。あぁ、自分の分のコーヒーも持ってくると良いわ。遠慮は無しよ。」
遠慮して断るのが分かったのか最後に釘を刺すと、茅乃は苦笑してキッチンへ向った。
「・・流川君、それ、気に入ったの?」
もくもくと2つ3つとフロランタンを口に入れていたら尋ねられて頷く。
余り甘いものは好きではないが、塩辛いラーメンを食べた後だと、甘さ控えめということもあって丁度良い。
「ですって。良かったわね、茅乃。」
「ふふ、流川さんと様は味覚が似てらっしゃるのかもしれませんね。余り甘くしていませんもの。」
「あぁ、そういえばそうね。甘いものは苦手?」
尋ねられて、流川は口の中の物を流し込むためにコーヒーを口にしたが、その苦さに眉を寄せた。
「あぁ。でも、これはいける。」
ミルクをとぷとぷとコーヒーに注ぐと、は茅乃を見て笑った。
「次からはカフェラテにした方がよさそうね。」
「えぇ。・・それにしても、この時間にご自分からご友人を招待されるのは珍しいですね。」
少しからかうような音が含まれていて、は眉根を下げた。
「もう、茅乃。やめて頂戴・・・でも、確かに。今まで車で送迎だったから送ってもらうことも余り無かったし、本邸だと人が多くていけないわ。皆噂話が好きなんだから。」
「・・・茅乃、さん、とは付き合い長いのか?」
2人の会話を聞いていた流川が尋ねると、は少し驚いたような顔をして頷いた。
「どうして?」
「・・・別に。」
眉根を下げる様子が、子どもみたいに見えたから、とは言えない。
同い年にしては大人びている彼女も、昔から世話されている相手だとどうやら仮面にヒビが入るようだ。
しかし、流川にしてもこの時間に、しかも女の家にいるのが不思議な心地がしてならない。
あたりを見回すと、流川の背後には一つ扉があり、その右にも一つ、そして流川の左側にも一つ扉がある。
「・・・広ぇ・・・」
呟くと、は首を傾げた。
「そうかしら。」
「何で、んなに部屋があるんだ?」
問われては扉を一つづつ指差しながら説明した。
「寝室、書斎、防音室。」
「防音室?」
何でそんなものがあるのか、と尋ねると、流川の気持ちが分かるのか茅乃が笑いながら口を開いた。
「ピアノとヴァイオリン用の部屋でございます。今度聞かせて頂くと良いかと。とてもお上手ですよ。」
「もう、茅乃。余計な事言わないでよ。」
へぇ、と相槌をうって、流川はミルクたっぷりのコーヒーを口に運んだ。
その後、3人でいくらか話し、時計の針が21時を指したところで流川はそろそろ帰るかと立ち上がった。
「あぁ、流川さん、どうぞこちらをお持ちになってください。」
玄関で見送る2人。その片方の茅乃に紙袋を差し出されて、中を覗くと、花柄の袋でラッピングされた何かが見える。
「フロランタンです。気に入って頂けたようなのでお召し上がりください。」
「・・・いーのか?」
彼女の隣に立っているに尋ねると、彼女は笑顔のまま頷いた。
「今日遅くまで引き止めちゃったし。ご家族の方にも渡しておいて。」
「ん。」
礼を言う代わりに手にある紙袋を軽く上げて頭を下げる。
「また明日ね。」
最後にのそういう言葉が聞こえて、頷いて返すとマンションを後にした。
良く分からないが上機嫌のまま自転車に乗り、家に程なくしてたどり着く。リビングに入っていくとそこには姉の結花がカーペットに横になりながらテレビを見ていた。
「おかえりー・・ってあれ、なにその紙袋。」
「む。」
素早く立ち上がった結花は紙袋を奪い取る。
「返せ」
「んん?可愛い袋ね。なになに・・」
ごそごそと取り出して花柄の袋を開けると出てきたフロランタンに目を輝かせた。
「おいしそー!差し入れ?」
もーらい、と一つ口に入れると「おいしー!」とはしゃぐ。
「珍しいじゃない。こんな手作りのお菓子貰うなんて。」
「・・・」
流川は姉の手にあるフロランタンを奪い取ると、取られる前に、と口に入れ始めた。
「お菓子なんて既製品か家で作ったものしか食べないくせに。何よ、好きな女の子でもできたー?」
その瞬間、流川の動きが止まった。
「2人とも何じゃれてるのよ。」
動きを止めた流川に、お、と楽しそうに目を輝かせる結花。が、彼女が何か言う前に部屋に入ってきた母親の声が遮った。
「あら、おいしそうなフロランタン。もらうわよ。」
フリーズしていた流川からやすやすとそれを奪い取ると口に運ぶ。
「美味しい!」
お母さん、フロランタン大好きなのよ!と嬉しそうにまた1つほおばる。
流川が我に返った頃には2かけらだけしか残っていなかった。
「・・クソババァ・・・」
ぽつりと言うと、頭に物凄い勢いで拳骨が落ちてきた。
「貰った子にちゃんとお礼言っときなさいよ。あ、あと、レシピも教えて貰ってきて。」
はーい、後のふたつも頂きます、と、母は残りを取り上げると、1つは自分の口に、もう1つは結花に渡して去っていった。
<<>>