かつかつ、とヒールの音が廊下に鳴り響く。
掃除をしていたメイドは、その主に視線を向けて、慌てて頭を下げた。
眉間に皺を寄せ、不機嫌であることを示している彼女には、関わらないのが一番だ。
「お父様は書斎?」
しかし、その頭上に、まだ歳若いながらも威圧感のある声が掛けられて、メイドは慌てて頭を上げた。
「は、はい。朝から書斎にいらっしゃいます。」
笑顔でメイドに礼を言うだが、その雰囲気たるや修羅のようで、メイドはぎこちなく微笑み返す。
そして、回答を聞くなり、書斎へ向かう彼女の背中を見送りながら、静かに、今日は荒れそうだと嘆息した。
彼女は普段は優しいが、それはもう、怒ると手がつけられないのだ。
たまに勃発する親子喧嘩を何度か目にしたことがあるメイドはその恐ろしさを目の前にして唖然とした経験がある。
触らぬ神にたたり無し。先人はうまいこと言ったものだ。
その心中を表すかのように足音荒く歩き続けたは書斎に辿り着き、蹴破るようにしてドアを開けた。
中でパソコンに向かっていた彼女の父親である男性は、驚いて、を見て、納得したように息を吐き出す。
怒鳴り込みに来るのは分かっていたが、これほど早く来るとは、と。
「・・・婚約ってどういうことかしら。お父様。」
丁度お茶を持って来た母親が後ろで「あらあら」と小さく呟いているのが聞こえるが、そんなことはどうでも良かった。
だん、とテーブルに手をついたは父親を睨みつける。
「・・・そのままの意味だ。」
なぁ、母さん。と言うと母はそうねぇ、と頷きながらテーブルにお茶を置いた。
父親だけではなく母親まで今回婚約の話が出てきた相手のことを好青年、将来有望と持て囃しているのは知っていたが、まさか、こんなに早く婚約話が出てくるとは思わなかった。
まだ中学生だというのに。
「・・・私。結構良い娘だったと思うわ。お父様の言うこともちゃんと・・じゃなかったかもしれないけど、聞いて。」
「そうね。ちゃんは私の自慢の娘だわ。」
うんうん。と母は頷いた。
「それなのに・・・あの阿呆と婚約だなんて酷過ぎると思わない?」
「跡部さんの方はの事を気に入って下さっているんでしょう?良縁だと思うんだけれど・・・。」
違うの?と自分を見て来る母に、は大きくため息をついた。
分かっている。あいつと来たら、外面だけは良いのだ。
「・・・もう良いわよ。」
は再びテーブルを叩くと立ち上がって部屋を出た。
こうなることを予想していた執事は心配そうにドアの外で様子を見守っていると、が出て来たので慌てて声をかけた。
「お、お嬢様、どちらに。」
「散歩よ。散歩。ついて来ないで頂戴。」
は上着と財布、携帯だけを小さなバックに入れて、足音荒く家を出た。
こなりゃ家出してやる。とは思ったものの、すぐに連れ戻されることは分かっている。
小旅行にでも行こうと適当に切符を勝って電車に乗り込んだ。
電車なんて久しぶりに乗る。
は席に座って、目を閉じた。
婚約だなんて、今の時代流行らない。なんだって、そんなことをする必要があるのだろうか。と悪態をつく。
結婚相手も見つけられないような人間に見られているのだろうか、と思うと尚更怒りがこみ上げてくる。
父と母だって恋愛結婚だったのだ。自分にもその権利はある。
「・・・はぁ」
外を眺めていたつもりが、いつの間にか眠っていたらしい。
終点を告げる声に、は立ち上がった。
降りてみるとそこは神奈川のとある駅。結構遠くまで来てしまった、と電車を降りてぶらりと散歩をする。
明らかに散歩ではない距離だ。
少し歩いたところに公園を見つけて、はベンチに腰掛けた。
自販機で買った水を飲みながら携帯の電源を入れ、電話をかける。
「茅乃?」
『お元気そうで何よりです。お陰さまで、こちらは大騒ぎですよ。』
少し怒っている声に、はふふ、と笑った。
「今日中に帰るから心配はいらないわ。」
『それは旦那様にお言いになって下さいませ。護衛が探しまわっておりますよ。』
付きのメイドである茅乃は大変なことだろう。思い当たる場所は無いかとさんざん聞かれたに違いない。
「それで、私の居場所はばれてるの?」
『今、まさに神奈川にいらっしゃることがばれましたよ。携帯電話のGPS機能は厄介ですね。』
「・・・ご忠告、どうも。」
まさかそこまで本気で探しているとは、とはすぐさま携帯の電源を切った。
今ばれたということは、一時間くらいで神奈川までやってくる事だろう。
少し、考えが足りなかった、と後悔しながらはベンチに腰掛けた。
放任主義だった親が突然二人揃って帰って来たと思ったら婚約話。
しかも、それはあの跡部だと言う。
「いくらなんでも相手くらい選ぶ権利はあるわよ。」
苛々と、はバッグから煙草を取り出すとライターで火をつけようとして、手を止めた。
争う声と、音が聞こえたのだ。
見ると、赤い髪の男と数名の男が殴り合っていて、ざっと見たところ多勢に無勢。
まぁ、あんまり赤い髪の男は辛そうにしてはいないが、憂さ晴らしには丁度良い。
はうーんと伸びをすると、ベンチにバッグを置いて立ち上がった。
「ねぇ。面白そうなことやってるじゃないの。」
そう言っては手前の男の肩を掴んで振り向かせると、にっこりと笑った。
男が怯んだその瞬間。は拳を男の鳩尾に叩き込んだ。
おまけとばかりに鳩尾を抑えて少しかがんだ男を蹴り飛ばして沈めると再び笑った。
「私も混ぜて頂けるかしら。」
結局、数分ほどで立っているのはと赤い髪の男のみとなった。
は誰も居ないのを確認すると再びベンチに戻ろうとするが、男に引き止められる。
首をかしげて男を見上げた。
「何?」
「何って・・・お前、強いんだな。」
「貴方もね。」
「ナッハッハッハ!俺様が強いのはいつものこと!」
調子の良い男にはぷっと吹き出した。
今までに出会ったことのないタイプだ。
は笑いながらポケットから取り出した煙草に火をつける。
「オイ、煙草はいかんぞ。身体に悪い。」
「知ってるわ。」
「見た所不良でも無さそうだし・・・アレか。非行に走る手前か。」
「んー間違ってはいないわね。」
くすくすと小さく笑いながらがベンチに腰掛けると男も隣に腰掛けた。
「ここで出会ったのも何かの縁!話ならこの桜木花道が聞いてやる。」
「ふぅん、桜木花道、ね。」
興味無さそうに呟いて、は煙草を口に持って行った。
肺まで煙を送り込むと、荒ぶっていた気持ちが少し落ち着いたように感じる。
「お前は?」
「私はよ。」
そう言いながらは時計を見た。
結構時間が経っている。そろそろ危ないかもしれない。
はもう一回煙草を吸うと、手早く携帯灰皿に押し付けた。
「ちょっと、桜木花道。学ラン脱いで。」
「む?」
「いいから。」
は奪う様に学ランを脱がせるとそれを羽織った。
前をきっちりとめ、服が見えないようにする。
ちょこっと散歩に出かけてのんびりして帰ろうと思っていたのに、予想外に大事になったものだ。
「で、どこか隠れるとこない?」
「それだったら・・・あそこの喫茶店のマスターなら顔が利く。行くか。」
「そうしましょう。」
頷いて、は花道のあとを付いていった。
公園からそう離れては居ない、小さな路地。そこに花道の目指す喫茶店はあった。
「ここだ。」
中に入ると、初老の男性がカウンターの中に立っていた。
「ん?花道君。どうかしたのかい?」
「邪魔するぜ。奥の席良いか?」
マスターはと花道を見比べて「訳ありそうだな」と肩を竦めて言うと、奥の方へと通してくれた。
「二人とも、飲み物は何にする?」
「あー、俺はオレンジジュース。」
「コーヒー。」
置かれた水で喉を潤し、一息ついたところで、花道と目が合った。
「で、何でまた学ランなんか着たかったんだ?」
「・・・・私、家出してきたのよ。護衛に探し回られてるから、制服見られちゃまずいでしょ。」
「ご、ごえー?」
聞きなれない単語に、花道は疑問符を浮かべる。
「ボディーガードって言えば分かる?」
「・・・・・お、おう・・・。」
どうやらとんでもない奴に会ってしまったみたいだ、と花道は頭をがしがしと掻いた。
「で、愚痴を聞いてくれるんだったわね。」
はにっこりと微笑んで花道を見るものだから、花道はこくこくと頷くしかできなかった。
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