ヒカルを目の前にして正座をする。
ひざの上で固く握った手のひらが妙な汗を掻いた。
『さん、このような場を与えてくださって、感謝します。』
囲碁のイロハを教えた相手が今日は対局者として目の前に座っている。
佐為からしたら、感慨深いものがあるのだろう。
(佐為、その言葉を言うのは早いよ。それは棋聖のタイトルを取ってからでしょ)
『・・そうですね。』
ここはスタート地点に過ぎない。
これから、本格的な戦いが始まっていくのだ。
始まりの合図にとヒカルは同時に頭を下げた。
時を越えて #31
佐為の気持ちがこんなに流れ込んでくるのは久しぶりだった。
嬉しさと驚き、そして子どもが成人したときの親の気持ちのような、なんとも言えない気持ち。
ヒカルの目の前から姿を消す直前にも、似たような気持ちを抱いたことはある。
しかし、今はそのヒカルと公式の場で対局しているのだ。
心が躍らない筈が無い。
暫し考え込む佐為に、は珍しいな、と佐為を盗み見た。
対局を初めて1時間ほどたっている。
数分、考え込んだ後、次の一手を指し示す佐為にしたがって打つ。
ヒカルが碁盤を見つめて、息を飲むのが感じられた。
『まだ、勝たせませんよ、ヒカル。』
最高潮に緊迫した空気が盛り上がる。
は身震いをした。
(私、少しだけ碁の勉強しようかなぁ)
佐為がおや、と眉を上げた。
まだ、ヒカルは次の一手を打たない。
『どういう心境の変化ですか?』
(だって、これから、こういう場に居合わせる訳でしょ?それこそタイトル戦とか。碁を知ってた方が楽しそうじゃない。)
その言葉に佐為は嬉しそうに笑った。
しかし、ぱちん、と石を打つ音に、はっと碁盤に視線を戻す。
それから更に1時間ほどたったころ、ヒカルが敗北を認めた。
その顔は悔しさに染まっていて、碁盤をじっと見つめている。
『良い対局でした。成長しましたね、ヒカル。』
その言葉を直接言おうか迷ったが、自分がヒカルの師であることを公言しているのを思い出して、口を開いた。
「・・良い対局でした。成長したね、ヒカル。」
そう告げると、ヒカルが顔を上げた。
「・・・次は、勝つからな。」
「同じようなことをアキラ君にも言われたよ。」
苦笑しながら答えると、ヒカルは不服そうにそっぽを向いた。
「俺が先に倒すんだから、負けるなよ。」
「はいはい。」
横の佐為を見ると、彼は微笑ましくヒカルとを見ていた。
検討を終え、外に出ると、アキラが待っていた。
「おめでとう」
前回の新人王の時も言われた言葉だが、今回はアキラとヒカルと対局した棋戦。
なんだかくすぐったい。
「ありがとう」
笑ってそう言うと、3人でホテルに荷物を取りに行った。
階が違った為、途中で分かれて借りていた部屋に入る。
「・・・・ようやく、2人と同じ所に立てたね。」
『えぇ。本番はこれからです。』
これまではプロとは言っても、ベテランは余り出ないような棋戦ばかりだった。
今後は今以上に厳しくなるだろう。
「昔は、まさか佐為と一緒に碁をするだなんて考えてなかったな・・・。」
荷物を詰めながらそう呟くと、佐為が笑う声がした。
『私もですよ。さんは余りお好きじゃありませんでしたからね。』
荷物を詰め終わり、少しだけ、とは椅子に腰掛けた。
窓から外を眺めると明るい空が見えた。
「まぁ、今世は私が佐為の変わりになるけど」
佐為と出会った時に決めていた。自分の残りの人生の半分は佐為にあげる、と。
「私が死ぬときは、佐為も一緒に成仏して、来世では自分の手で打つと良いよ。その時記憶が残っているかは分からないけどね。」
苦笑しながら窓の外から佐為に目を戻すと、彼は優しく微笑んでいた。
『そうですね。・・・もし、記憶が残っていないとしても、私は、きっと碁を打ち続けます。そして、願わくば、さんもヒカルもアキラ君も、そして時呉も、近い存在で生まれ変われれば、と。』
「ヒカル君もアキラ君も、近いところに生まれなくたって、きっと碁の世界で出会うよ。」
はそろそろ行かないと、と呟いて立ち上がった。
『さん、本当にありがとうございます。』
何度言われたか分からない礼。
『・・・これからも、よろしくお願いしますね。』
それに、付け加えられた言葉には笑顔になった。
「まぁ、私たち運命共同体みたいなものだからね。ほら、佐為、行こう。」
『はい。』
頷いて佐為はの後に続いた。
エントランスに下りると2人が待ちくたびれたようにソファに座っている。
「おい、遅いぞー!」
それでも文句を口に出すのはヒカルだけだ。
「文句が多い男は嫌われるわよ。」
その言葉にムキになる辺り、彼もまだまだ子どもだ。
これから、何十年と彼らとは好敵手として対局し続けることになるのだろう。
はそう考えながら、チェックアウトを済ませた。
「荷物、持ちますよ。」
「え、悪いよ。」
申し出てくれたアキラに申し訳無いと返すと、彼は微笑んで荷物を奪ってしまった。
「負けた身ですからね。荷物持ちくらいしますよ。」
アキラにしては棘のある言い方だ。
昨日、負けたのが悔しかったのだろう。
「あーぁ、嫌だ嫌だ。公然といちゃつきやがって。」
「・・・はぁ、これの何処がいちゃついてるように見えるのよ。」
明日からは授業が始まる。
暫くは大学に通う日々が再開するだろう。
(あと3年。3年後が、私にとって、もう一つの区切りになる。)
そうしたらタイトル戦にばんばん出て、佐為に思い切り打たせてやるつもりだ。
その傍ら、自分は何か副業でもすれば良い。
(研究生として残るっていうのも手かな)
『今世の目標は、私もさんも悔いなく生きることですね』
隣に立つ佐為がを見下ろしながら言った。
(そうだね。死ぬときに後悔が無いように、4人で頑張ろう。)
3年後、の予定通り、プロ棋士として彼女は本腰を入れると同時に、研究生として今でも大学に通っている。
論文執筆の時期は慌しくなるものの、教授と相談次第でタイトル戦に合わせてまとまった時間も取れるのだから、持って来いの副業だ。
タイトル戦では緒方に一敗を貰ったものの、それ以外は今のところ順当。
(さて、と。そろそろ行こうか、佐為。)
午前中のうちにテストの採点を粗方終わらせたは立ち上がった。
『はい。』
その背中に教授が声をかける。
「頑張って来いよ。賞金で何か美味いもの食わせてくれ。」
冗談交じりの教授の言葉に笑って返す。
もう何度目か分からない激励の言葉。
そしてヒカルとアキラとの対局。
それがこれからも続くのだろう。
スタート地点
2013.5.6 執筆