佐為はまだ棋譜でも読んでいるのだろう。
せっかく長い老後を過ごしているんだから他の本でも読んでみれば良いのに、と思うが彼は案外頑固なのだ。
「囲碁、楽しいのか?」
土曜日の朝。
珍しく朝食の時間にリビングに降りて来た鉄男は、唐突にそう尋ねた。
背後でトースターが音を立てたので、「あぁ、うん」と答えながら皿にトーストを移す。
上にのっけたチーズが中々良いやけ具合だ。
「今度打ってやるよ。」
「え、別にいいよ。」
間髪入れずに答えると、鉄男がむっと眉を寄せたのが分かった。
時を超えて #15
今日も塔矢宅に行く事になっている。
は支度をしながらちらりと佐為を見た。
定期的に訪れる塔矢宅での対局は佐為にとって良い刺激になっているらしい。
「佐為」
うきうきしてるところ悪いが、重大なお知らせだ。
『はい、何でしょうか?』
弾む声に少しだけ心が痛む。
「今日は、進藤ヒカルも来るって。」
『え・・・?』
佐為はぽかんと口を開いて少しした後、俯いて難しそうな顔をした。
そんな佐為をよそに、はテキパキと身支度を整える。
「佐為が今更会って何て言われるか、とか、どういう顔をして会えば良いかとか、心配なのは分かるけど・・・」
『いえ、私はそんな!』
反射的に反論してしまった佐為はすぐに言葉を詰まらせて、ただの顔を見つめた。
何と言えば良いのか、と言葉を探している佐為に、は溜め息をついて頷く。
「うん。さっき言ったのには語弊があるかもしれないけど、佐為がヒカル君を避けてるのは事実だよね。」
『・・・』
バッグを手に取って立ち上がる。
「ヒカル君に会うべきだと思うよ。ほら、行こう。」
佐為は困った様にを見上げた。
そんな佐為に手を差し出す。
『・・・・』
佐為は視線をの掌に落とした。
『私は、別に、ヒカルを避けてなんて・・・。』
じっとの差し出した手を見つめながらもごもごと呟く。
「へぇ、そうなんだ。」
は良い笑顔で頷いた。
佐為はそれに頬を膨らませる。
『本当です!ただ、急にいなくなった私をどう思っているのかと気になって会い辛いと思ったくらいで・・・!』
「・・・(それを避けてる言うんじゃないだろうか)」
はそう思いながら時計を見た。
そろそろ出ないと間に合わない。
は溜め息をついた。
15分後。
は佐為をひきずって塔矢宅まで辿り着いた。
其処には既にヒカルがいるようで、明らかに今までこの家で見た事の無かった靴が玄関先にあった。
「こんにちは、ちゃん。」
明子が顔を出してスリッパを用意してくれる。
「こんにちは、明子さん。」
「今日は進藤さんとアキラさんと勉強会?」
問いに、はちらりと佐為を見て、そんなものですと苦笑しながら言った。
「あ、おわったら教えて頂戴ね。今日はケーキがあるのよ。ちゃんの好きなショートケーキ。」
「え、本当ですか?嬉しいです。」
じゃぁまた後で、と2階に上がる。
佐為はここまで来たら大人しくするしか無いのか、静かにの後ろをついて来るが、言葉は無い。
(まぁまぁ、ヒカル君がどれだけ強くなったのかとか、たまに気にしてたじゃない。)
『それはそうですけれど・・・・。』
歯切れの悪い言葉には溜め息をついてドアノブを回した。
佐為が何を心配しているかは大体想像がつくが、それは杞憂だ。
話しを聞いている限り、彼は佐為に会うのを嫌がるようには思えない。
(いつもは無遠慮な癖に、こういう所で、変にしおらしいっていうか・・・)
『失礼な!私はいつだって・・・!』
(はいはい)
適当に流して、ドアを開けると、中には予想通りアキラとヒカルがいた。
「俺に会わせたい奴って、こいつ?」
顔を見るなり、そう言って指差すヒカルにはぴくりと眉を動かした。
想像していたのと少し違う、と。
「進藤、言い方が悪いぞ。」
ぱし、とその指を叩き落としたアキラはの顔を伺った。
「・・とりあえず、打ちましょうか。さん。」
「うん。」
は頷いて足を踏み出した。
それにヒカルは驚いたように目を瞬かせる。
そして薄く笑った。
「マジで言ってんの?」
ヒカルはちらりとアキラを見て、そしてを見た。
「なぁ、アンタ、プロでも院生でも無いよな?」
言いながら渋々といった様子で碁盤の前に座るヒカル。
は傍らの佐為を見上げた。
(佐為・・・随分と躾がなってないんじゃないの)
『すみません、さん・・・でも、根は良い子なんです!』
そう言いながら佐為はの横に腰を落ち着けて、ヒカルに視線を向けた。
「進藤、四の五の言わず、打ってみれば分かる。」
強い口調のアキラに、ヒカルは首を傾げた。
「ふぅん?まぁ良いけど。あ、アンタが先でいいよ。」
「どうも。」
何て気に食わない餓鬼なんだ。と、自分よりも年上なのにも関わらず心の中で悪態をつく。
(佐為、久しぶりの再会だからって遠慮することは無いから。)
そう言いながら石を取る。
今までも碁会所で打つ時、侮られることは無くは無かったが、矢張り気分の良いものではない。
はいらいらとしながらも石を手に取った。
納得のいかない表情のままヒカルは碁を打ち続けていたが、時間が経つにつれてその表情は固くなって行った。
じぃっと碁盤を見つめて、息を詰める。
(・・・まさか)
そして視線を上げた時、丁度、が右上を見て、目を見張ると同時に立ち上がった。
『さい』
彼女の口がそう動く。その口が何と言っているか、すぐに分かった。『佐為』だ。
それを見つめているうちにも、彼女は慌てて部屋を出て行ってしまった。
「さん?」
「塔矢、待てよ!」
アキラも驚いて立ち上がって追いかけようとしたが、それをヒカルが止める。
引っ張られた手に、アキラはヒカルを見た。
「あいつ、何なんだよ!あの打ち方、まるで・・・・!」
ありえない、と口の中で呟く。
「とりあえず、行くぞ。」
アキラは引っ張られている手をぐいと引っ張って部屋を出て行くので、それにつられるように、ヒカルも部屋を出て、彼女を追った。
「ちょっと、佐為、いきなりどうしたのよ。」
自分とは違って、壁等の障害物をものともせず進む佐為はすぐに見失ってしまったが、気配では分かる。
は塔矢宅から然程離れていない小さな神社の隅っこですすり泣く佐為を見て呆れた様に言った。
「ヒカル君を目の前にしたらどうして良いか分からなくなった?」
『・・・さん』
は石段に腰掛けた。
「でも、ずっと、気になってたんでしょ?ヒカル君のこと。」
問われて佐為は息を吐いた。
『・・・はい。』
「で、会ってみてどうだった?」
『驚きました。』
ぽつりと出て来た言葉に、佐為は自分の中で噛み締めるように、もう一度口の中で繰り返した。
は話しの先を促すように、視線をやる。
『・・・ヒカルは、私がいなくても1人で碁の道を進んで行ける。私は、ヒカルの前から居なくなる時、そう感じていました。ですが・・・』
そこで、佐為は、自分の感情を吐露するのを躊躇うかのように、言葉を区切った。
『ですが、いざ、1人で成長しているヒカルを見ると悲しいものですね。』
全く、普段は能天気な癖に、とは石段から立ち上がった。
「でも、ヒカル君が成長出来るまで教えて来たのは佐為でしょ?」
ようやく言葉を発した彼女を見上げる。
「佐為って変なところでマイナス思考よね。彼がここまで強くなれたのは自分教えたからってもっと誇りに思えば良いのに。」
は腕を組んで、呆れたように佐為を見下ろした。
昔の、彼女の兄を思い出させる行為だ。
「もう落ち着いたでしょ?早く戻ろうよ。」
佐為は少し迷った後、立ち上がった。
混乱